ホーム/目次/第1章 身近な土地の生い立ち
地形図を読む/地面は何からできているか/台地と低地の生い立ち/海面の上下と氷期/河川がつくる地形/私たちの第四紀
大きさを計る表す
自然科学(理科)では、物事を客観的に表すことが大切です。今、目の前に四角い箱があるとすると、それがどんな形なのか、どのくらいの大きさなのか、万人に共通の言葉で正確に伝えなければなりません。そのために用いられるのが、数字と単位です。その例として、ものの大きさを計って数字で表す場合について考えましょう。
ものの大きさを計るときには物差し使うように、計測には何か基準が必要です。これを単位と呼びます。古来人間は身近で使いやすいもの、例えば自分自身の体の一部を用いて、ものの大きさを計ってきました。足の大きさで何足分、指の太さで何本分・・・といった具合にです。これを身体尺といい、尺、寸、フィート、インチなどは現在でも使われています。しかし産業革命の進展とともに、もっと正確で共通性の高い基準が必要になりました。そうしたなかで1795年、フランスのアルシーヴによって提案されたのが、私たちにもなじみ深い大きさの単位、メートル(m)です。メートルは地球の大きさを基準に決められた単位、いわば地球尺で、次のように定義されました。
| 極−赤道間の1千万分の1 = 1m *1 |
逆に北極(南極)−赤道は1千万m=1万km、地球一周は4万kmと言うことになります。
次に、このようにして計った大きさを図に表すことにします。大きいものを縮めて(小さいものを拡大して)図に示すとき、何分の1に縮めたのか、その縮め率に相当する数を縮尺と言います。1,000mを1mに縮めた図の縮尺は1/1,000です。ものの大きさを図で表すときには、必ずこの縮尺を明らかにしておくことが必要です。
地形図を読む
地学を勉強するに当たって、まず最初に私たちの暮らしている身近な土地に注目しましょう。そのために、身近な土地の地図を見てみることにします。日本全国を細かな碁盤の目に分けて、その一つ一つのマス目についての詳しい地図が建設省国土地理院から発行されています。いろいろな縮尺の地図が発行されていますが、その中で最も基本的な、縮尺1/25,000の地形図を見ます。さまざまな記号により土地の様子が表現されていますが、特に土地のデコボコは等高線という曲線で表現されています。等高線は慣れないと分かりづらいのですが、図1のようにカラー化すると大分見やすくなります。
地形を表す方法には断面図という図もあります。これは文字通り、土地を垂直に切った断面を真横から眺めた図です。正確な断面図を描くためには、地形図の等高線から作図する必要があります。地学の学習では、精密なものから概略を模式的に表したものまで、さまざまな断面図が登場しますので慣れておいて下さい。
さて、それでは習志野市(千葉県北西部)の実籾高校周辺を例に、10m間隔の等高線間を塗色した地形図と、実籾高校上を横切る線a−bにおいて作図した断面図を見てみましょう。

図1 実籾高校(千葉県北西部習志野市)周辺の地形図
図2 a−b断面図
私たちの暮らしている千葉県北西部を含め、東京やその近郊は関東平野と呼ばれる広くて平らな土地です。しかし平野と言っても完全に真っ平らではありません。歩いてみればあちこちに坂道があることはみなさんも良く知っているでしょう。実籾高校周辺を例に、地形図や断面図をよく見ると、あるパターンを読み取ることができます。それは「土地が一段高いところと低いところの2段構えの形をしている」ということです。高いところを台地、低いところを低地と呼ぶことにします。例えば、大久保駅、実籾駅、八千代台駅は台地の上に、京成津田沼駅、幕張駅は低地の上にあることが分かります。そこで、八千代台地、花見川低地、津田沼低地、実籾谷低地などの地名を勝手に付けてみました。
このような規則的な地形が偶然にできたとは考えられません。何か原因があるはずです。そこで、この台地と低地という特徴ある地形に注目しながら、土地の生い立ちを探っていくことにします。
サブテーマ カシミールで立体的に見た台地と低地
実習 立体地形図を作る
台地と低地を歩く
日常はさほど意識していなかった人が多いと思いますが、改めて見てみると私たちの暮らしているところには、この台地と低地という特徴ある地形と自然が広がっていることに気付きます。低地はしばしば狭い谷状の形をしていて、湿地や水田になっており、谷津や谷津田と呼ばれています。また谷津を囲む斜面は林になっていて、斜面林と言います。最近はこのようなところも宅地化が進み、習志野市あたりでは本来の姿を残すところはほとんど無くなりました。台地は森林が早くから伐採され、畑や宅地として利用されてきています。
このような台地の縁には縄文時代*2の遺跡が多数発見されています。実籾高校周辺地域でも縄文土器が出土する貝塚、竪穴住居跡が発見されています。貝塚はその名の通り、縄文人が食べた貝の殻などを捨てたゴミ捨て場です。彼らは漁に適した海辺に暮らし、貝や魚などの海産物を採って食べていたわけです。ところが貝塚は海からは遠く離れた埼玉県や群馬県にも多数あります。このことから、当時の海は現在と違って埼玉、群馬など関東平野内陸部にまで広がっていたことが分かります。このように「縄文時代には現在の海岸線よりずっと内陸まで海水が侵入していた」ということを一言で縄文海進と呼びます。
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写真1 台地と低地の風景 実籾高校屋上より。千葉県北西部(関東平野)では、ありふれた風景。谷津田、斜面林など、かつての姿をかろうじてとどめている。 低地は縄文の海。写真の「台地」の文字付近からは縄文遺跡が発掘されている。 |
実習 台地と低地を歩く
実籾の自然を歩こう(一般向け自然観察コース)
アルバム 実籾の自然
【*1】 1mの定義はその後、より精密に改訂が重ねられ、現在の定義は
1m =299,792,458分の1秒間に光が進む距離 (1983年〜)です。
【*2】 縄文時代と言えば、日本史の授業では最初に軽く触れられて済まされてしまうことが多いようです(仕方ありませんが)。しかし縄文時代は軽視できません。例えば、その長さの注目しましょう。縄文時代は(はっきりしませんが)およそ1万年前頃には始まっていたので、日本の歴史の中でも大変長い時間を占めていることが分かります。

今から1万年前、それまで長く続いた寒冷期(氷期)が終わり、氷河が融けて海面が上昇しました。そのため日本列島は大陸と切り離され、現在とほぼ同じ姿になりました。植生も亜寒帯(冷帯)の針葉樹林から落葉広葉樹林(東日本)〜照葉樹林(西日本)に変わりました。縄文人はこのような環境の変化に対応して登場します。縄文人たちは竪穴住居の集落を作り、木の実(ドングリなど)、動物(シカ、イノシシ、ウサギ)、鳥、魚、貝などを採って暮らしていたようです(狩猟採集生活)。「縄文」の名は、表面に縄目の文様をしるした土器(縄文土器)からきています。彼らは採集した食糧をこの土器で煮炊きしたり貯蔵したりしたことでしょう。彼らのゴミ捨て場である貝塚から、当時の彼らの生活をうかがい知ることが出来ます。縄文時代の人々と言うと、私たちとは無縁な「野蛮な原始人」というイメージを持つかも知れませんが、そうではありません。現在の日本人にも受け継がれている自然崇拝(アニミズム)の伝統などは、穏やかで豊かな自然の恵みとともに生きた縄文人から脈々と受け継がれたものと考えられます。
関連サイトと参考書
| 国土地理院 http://www.gsi.go.jp/ |
国土地理院の地形図と言えば、登山者にはおなじみ。最近では地形図や空中写真の閲覧も始まった。 |
| カシミール3Dのホームページ http://www.kashmir3d.com/ |
数値地図の閲覧や鳥瞰図、展望図の作成ソフトとして現在ではすっかり有名に。とにかくすごいソフトで、これがフリーとは・・・!作者のDAN杉本氏には本当に感心感謝するばかり。書籍「カシミール3D入門」は数値地図付きで1900円と夢のような一冊。 |
作成2001年5月 更新2003年4月